宝塚歌劇団のレジェンド演出家
宝塚歌劇団の不朽の名作『ベルサイユのばら』や『風と共に去りぬ』を手がけたことで知られる植田紳爾先生。
世間一般の宝塚歌劇団のイメージを築き上げた、生きる伝説と言える演出家です。
この記事では、植田紳爾先生の偉大なる功績を辿っていきます。
植田紳爾先生の歴史と逸話、2つの代表作について
1933年に大阪府に生まれ、2019年現在御年86歳の植田紳爾先生。
幼くしてお父様を亡くし、その後お母様とも生き別れとなり、叔父夫婦に引き取られ、育てられたそうです。
子供の頃に戦争を経験しており、空襲にあった際はなんと遺体を運ぶ手伝いをしたことも!激動の少年時代を過ごした植田紳爾先生ですが、ピアノやバレエ、三味線を習い、芸事に造詣が深い一面もあり、中学の頃から演劇の楽しさに目覚めていきます。
早稲田大学第一文学部演劇科に進学し、その頃に元男役スターの葦原邦子さんと出会い、勧められたことがきっかけで、宝塚歌劇団の演出家を志すことになったそうです。
1957年に宝塚歌劇団に入団し、なんと1年目にして小劇場公演『舞い込んだ神様』で演出家デビューを果たします。
入団当初は舞踊劇などの小作品を多く手がけていました。
1971年に、10世紀の高麗を舞台とした名作『我が愛は山の彼方に』を上演、1973年に源義経=チンギス・ハーン説を題材とした一本物の大作『この恋は雲の涯まで』を上演し、壮大な歴史ロマンを描いた作品で好評を博していきます。
2作とも、その後時を経て幾度も再演を果たしました。
そして1974年、宝塚歌劇の至宝と言うべき名作『ベルサイユのばら(オスカル編)』を月組で初演し、伝説的な大ヒット作となります。
翌年1975年には『ベルサイユのばら(オスカル編)』を花組、雪組で再演、1976年には『ベルサイユのばら(フェルゼン編)』を星組、月組で上演し、空前のベルばらブームを巻き起こします。
ベルばらブームの冷めやらない中、翌年1977年には名作映画、『風と共に去りぬ(バトラー編)』を月組、星組の2組で舞台化し、こちらも大ヒット作に。
1978年には『風と共に去りぬ(スカーレット編)』を雪組、花組の2組で上演し、『ベルサイユのばら』と並ぶ人気で宝塚歌劇の大ブームを築き上げることに貢献しました。
植田紳爾先生の代表作であり、宝塚歌劇を象徴する大人気演目となった『ベルサイユのばら』と『風と共に去りぬ』は、その後も演出にアップデートを加え、時を超えて再演を繰り返し、受け継がれていくことになります。
演出家としての確かな手腕と偉大なる功績から、1996年には宝塚歌劇団理事長に就任します。
1998年に宙組新設による5組化、東京宝塚劇場の大々的な改装の指揮を執り、変革期を牽引しました。
2004年に理事長退任後は、劇団の特別顧問を務めながらも劇作家、演出家として活動を続けています。
植田紳爾先生の演出における特徴
『ベルサイユのばら』で宝塚歌劇における古典を確立した植田紳爾先生の演出は、様式美を重んじる姿勢が強く見られます。
『ベルサイユのばら』初演時には、歌舞伎界出身の時代劇俳優、長谷川一夫に男役の演技指導を依頼し、男性美を追求した型を築き上げました。舞台上の所作を“作って魅せる”宝塚歌劇の様式美は、植田紳爾先生のもと確立したと言えるでしょう。
今も尚、時を超えて男役、娘役の型を踏襲していく伝統が受け継がれています。
また、植田紳爾先生は演出上タブーとされることに対しても果敢に挑戦し、表現の幅を大きく拡げてきました。
例えば、『ベルサイユのばら』はフェルゼンとマリー・アントワネットの悲恋、言わば不倫劇が物語の一つの軸となっていますが、『清く 正しく 美しく』をモットーとする宝塚歌劇において、不倫劇を題材とすることに対して否定的な意見もあったそうです。
しかし、舞台上では美しくも哀しい恋物語の情景に焦点を当て、品位を保った演出を行ったことで、切ない悲恋劇として大成功を収めました。
他にも、『風と共に去りぬ』上演以前は男役にヒゲを着ける演出はタブーとされていましたが、関係者を説得の上、レット・バトラー演じるトップスターにバトラーのシンボルであるヒゲを着けさせて上演に臨みます。
結果、リアルなバトラー像とその渋さで大好評を博し、ヒゲの演出は他の公演でも取り入れられるようになりました。
まとめ
2019年で創立105周年を迎えた宝塚歌劇団。
現在に至るまで、植田紳爾先生の功績は計り知れず数々の熱狂を生み出してきました。
植田紳爾先生が築いた様式美は宝塚歌劇の伝統として、時代を超えて受け継がれていくでしょう。また、2020年には植田紳爾先生の新作レビュー『WELCOME TO TAKARAZUKA -雪と月と花と-』が月組で上演されることが発表されました。
常に新しく挑戦し続ける植田紳爾先生の次回作に、期待が高まります。
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