舞台を観るときに、登場人物の心情を考えてみることがあります。
「この人はどういう気持ちがあったのだろう」とか「この物語の後にはどういう方向になったのかな」みたいな。
宝塚歌劇の名作『エリザベート』でも考えるところが多々あります。
その一つが、黄泉の帝王であるトート閣下の想い。
死を具現化した存在であるトート。
エリザベートを愛し、そして自らの元へ誘おうと、エリザベートの影には常にいました。
トートをみていると『愛』ってなんなのだろうってふと思うんですよね。
「生きたい」シシィ(エリザベート)
シシィがトート(=死)を認識したのは、幼少の頃に木遊びをしているなか落ちたとき。
シシィが三途の川(欧州の認識では正しいのかな?笑)のような意識でいるところに、トートが現れる。
しかし、そこで思う強く想う「生きたい」という気持ち。
命をシシィに返し、その場は終わります。
その後時は経ち、シシィが大人は大人になり…
トートに再開するものの、その時シシィは死に直面した事実を忘れています。
当時、心から強く願ったその想い、そして死すら忘れたシシィという存在が。
「死は逃げ場ではない」:死を意識したシシィに興味はない?
恋なんてした方は忘れるわけないじゃないですか。
きっとトートもそうなんですよね。
初めて目にしたシシィ(彼女に愛を持った瞬間)は、「生きたい」と強く願う彼女。
それはつまり、「死という存在意識しているけれども、それを超える意志を持っているシシィ」を愛したわけですよ。
(「生きたお前に愛されたいんだ」とも言っていますし…)
そんな中、時は経ち…ルドルフが死に、その絶望に打ちひしがれるシシィ。
「死なせて」と懇願したシシィに対し、トートは「死は逃げ場ではない」とバッサリ。
もしも、自分の愛している人が、自分のもとに来てくれるのであれば、そんなに嬉しいことはない…なんて自分は思い続けていました。
でもトートはそれを受け入れなかったわけです。
それは「生きたいという気持ちを持たないシシィ(死を求めるシシィ)には興味がない」ということなのでしょうか。
愛ってなんなのだろう、トートの気持ちは愛なの?
いろいろな側面から考えみました。
例えば、トートの能動的な気持ち、受動的な気持ちそれぞれでも違うと思うんですね。
- (トートが)強く生きたいと願い、人生で戦い続けるシシィという存在が好きなのか
- 自分が愛すだけでなく、愛されたいけど、それは生きているシシィに愛されたい
というように。
『愛と死の輪舞』の歌詞でもあるような「生きたお前に愛されたい」というのが、まさしく2番目の方ですよね。
でもそうなると、なぜ矛盾が……死という存在を受け入れてもらわなければ、こちらへは来てもらえない。。。つまり、生きたシシィに愛してもらうなんていうことは矛盾ですよね。
(まぁ、まさしくここが禁じられた愛のタブーであるとは思いますが)
でも、どちらにしても、生命を感じさせるシシィであることには間違いがないじゃないですか。
そして、そのシシィが好きだとううことは、愛よりかはエゴではないのかな、と。
真実の愛なんて、自分もたどり着いているわけではありませんが…彼女の他の部分を愛していない、限定的な彼女を愛しているということは『愛している』とは言えるのかな…なんて思ってしまいます。
きっと自分も歳を重ねるに連れて感じることも変わってくるのでしょうか。
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